世界遺産 五箇山菅沼合掌造り集落

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菅沼合掌造り集落

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su02時空を超えた日本の原風景へ。
 
 富山県の南西端にある南砺市・五箇山には、9戸の合掌造り家屋を今に伝える菅沼合掌造り集落があります。その家屋は、いくつもの歳月を重ねて、冬の豪雪に耐えうる強さと、生活の場と養蚕などを生産する仕事場を兼ね備えた合理性を持つ建物です。

 そのたくましく美しいたたずまいを筆頭に、日本の原風景ともいうべき山村の景観も含めて、1995年12月に岐阜県白川郷、五箇山相倉とともにユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 周辺の山林をも含めた地域が世界文化遺産に指定されているため、観光地化されていない、ありのままの自然を残しているところが魅力。遙か昔にタイムスリップしたかのような不思議な感覚を味わえます。また、集落内には江戸時代の主産業を今に伝える「塩硝の館」や「五箇山民俗館」があり、五箇山の歴史と伝統にふれることもできます。

 
ユネスコの世界遺産の6つの価値基準
(1)人類の創造的才能の傑作を現すものであるか。

(2)ある期間を通じ、またはある世界の文化上の地域で、建築、記念碑的芸術、都市計画あるいは景観デザインの発展において、人類の価値の重要な交流の過程を示すものであるか。

(3)いまも生きているか、あるいはすでに消滅した文化的伝統や文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠となるものであるか。

(4)人類の歴史上の有意義なステージを例証する、ある形態の建造物、建築物の秩序ある集合、または景観の顕著な例であるものであるか。

(5)る文化を代表するような伝統的集落または土地利用の顕著な例であり、特に元に戻ることができないような変化の衝撃によって、すでに価値を損ねやすい状況に至っているものであるか。

(6)世界的に著名な事件・伝統・思想・信仰・芸術作品・文学作品と密接に関係するものであるか。

 
 
su01厳しい自然とともに生き抜くために。

 

 五箇山の菅沼合掌造り集落と、相倉合掌造り集落。この2つの集落で見られる合掌造り家屋は、全国でも有数の豪雪地帯で暮らす人々の生活の知恵によって発達してきました。屋根の傾斜が60度もの急勾配になっているのは、湿った雪の重みに耐えるとともに、雪を滑り落としやすくするためです。雪下ろしの負担を軽くするための知恵といえるでしょう。

 合掌造り家屋の最大の特徴は、“茅葺き屋根”であり、その葺き替えには多くの人手と時間を要します。昔からその作業は、人々が互いに助け合う「結(ゆい)」という制度に基づいて受け継がれてきました。五箇山には、その心がしっかりと根付いているからこそ、現在の合掌造りの景観が守られているのです。

 茅葺きに使用する茅は、秋に刈り、雪垣にして冬を越すことで、春までに乾燥させるという流れで準備されます。茅葺き作業では、朝、結の人々が集まり、屋根をむく作業から開始。葺き替え前の茅を質によって選別し、質の悪いものだけをむいていきます。次に、茅の束を屋根の妻の隅に結束する「ハフジリ」、屋根の軒の部分を葺く「オジリ」、そして、一番広い屋根の面の部分を葺いていきます。こうして丸1日かけて屋根の葺き替えが終わります。

 この茅葺き作業に興味のある方のために、茅葺き体験を実施しています。ツアーでの参加も応募可能な場合がありますので、ぜひお問い合わせください。
 
 仕事場でもあった合掌造り。

 

su04 五箇山の合掌造り家屋の造りは、塩硝、養蚕、紙すきとも深い関係があります。五箇山は、耕作地の狭い土地柄だったため、人々が生きていくためには農作物以外の換金産物が必要でした。そこで、平野部の米づくりに匹敵するほど五箇山の人々にとって重要だったのが、塩硝づくりです。その生産は、江戸時代に五箇山を治めていた加賀藩の奨励と援助を受けて、五箇山の中心産業にまで発展しました。

 火薬の原料となる塩硝とは、土の灰汁(アク)を煮つめたもののこと。いろりで煮詰めては塩硝を取る、という作業を何度か繰り返して上質の塩硝を作っていきます。そのためには、大きないろりや広い作業場などが必要となり、塩硝の生産量は家の大きさに比例していました。広い作業場は紙すきにも活用されました。

 また、合掌造り家屋は、屋根裏部分を養蚕のための場所として活用していました。屋根裏部分に囲炉裏の熱が届くよう、屋根裏部分を2層3層に区切り、天井に隙間を空けるといった工夫が凝らされていました。すると、囲炉裏の熱とともにスス(煤)が柱の縄に染み込むため、建物の強度を増すという効果もありました。また、養蚕は、塩硝のもととなる土を作る際に蚕糞を入れることから、塩硝づくりとのつながりも深かったのです。

 
蓮如上人の篤い地。

 

 人々が助け合う「結(ゆい)」の精神は、五箇山に根付く真宗信仰が根幹にあると言われています。浄土真宗は、浄土真宗本願寺8代蓮如上人が越中で布教していた時代に、五箇山赤尾生まれの赤尾の道宗という人物によって広められました。

 道宗の尽力によって五箇山の住民は真宗の信徒となり、各集落に建てられた念仏道場では、信徒は称名念仏を唱えながら仏法を聴聞していました。浄土真宗は、人々の心の支えとなったのでしょう。念仏の教えを中心に結束を強め、厳しい自然の中で助け合いながら暮らしていました。念仏道場のひとつは、のちに行徳寺になったといわれています。

 赤尾の道宗が、真宗を広めることになったのは、幼い頃に亡くした両親に似た五百羅漢を探す旅の途中で見た夢がきっかけでした。その夢の中に気高い僧侶が現れ、「京都の蓮如上人を訪ねれば、別れることのない親に会える」とのお告げを受けたことから、道宗は京都の本願寺を訪ねました。蓮如上人の尊い姿と法話に感激した道宗は、3日3晩蓮如上人の側を離れずに聴聞したといわれています。道宗の名付け親は、蓮如上人です。道宗は、ふるさと・五箇山に帰ってからも、年に1度は京都へ赴き、蓮如上人の教えを賜りました。

 道宗は日々自らを戒め、阿弥陀如来の48の誓願に似せて48本の割木を並べ、その上に眠りました。夜中、痛みで目覚めるたびに仏様に合掌し、念仏を唱えられることに感謝したのでした。道宗の日々の行いは、「赤尾道宗心得二十一箇条」として今に残されています。
 

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